20代前半のころ。私は猛烈に貧乏であった。

ルームシェアをしていた友人にフラれ、一人暮らしを余儀なくされた私は、取り急ぎ近くの一番安いアパートに転がり込んでいた。

「創作をやりたい」という漠然とした夢を追っていた私は、引越当初はかろうじて職に就いていたものの、偶然入った舞台制作の仕事に飛びつくような形で離職し、たまに入るダンスのギャラと哀れんでゴハンをおごってくれる皆様を頼りに生きるというどうしようもないドリーム野郎となった。

仕事がない時は日がな一日文章や絵を書いたり、外をブラブラしたり、お気に入りの昭和歌謡が入ったMDを聞いたり、つげ義春みたいな生活をしていた。

しかし、20代前半の女性が数年働いたくらいで貯まったお金などあっという間に生活費に消えてしまう。

貧乏な時代というのは決して珍しいことではないと思うけど、「住む場所がなくなるかもしれない」という不安はちょっと笑えないものである。

テレビのドキュメンタリーで見る「ネットカフェに住んでいる女性」とか「万引きGメン」の特集で「通帳の貯金額は…1250円…」などとナレーションが入るシーンがあるけど、自分の通帳も遠からずな状態になった時、さすがに背筋が凍って「なんでもいいから仕事せな」と思った。

 

偶然舞い込んだVシネサイトの仕事


そんな時偶然入ってきたのが、「ガラケーのVシネサイトの運営バイト」の話であった。

当時ガラケーの動画サイトは全盛期で、その会社もVシネサイトで大儲けしているところだった。具体的な仕事内容は、サイトのHTML更新と動画の切り出し(当時は全動画をいっぺんに保存できず、数分ごとにカットして配信していた)である。

…HTML…

なにそれ。

変態(H)タケシの(T)見事な(M)リンボーダンス(L)…というしょうもない語呂合わせが思いついた。

ADSLなら聞いたことがあるけどHTMLは聞いたことがない。

でもこの仕事を逃すのはまずい。面接で「HTMLは書けますか?」と聞かれ一瞬ひるんだが、「…書けます☆」と笑顔で答えた。もう後戻りはできない。

一人でボッケ〜と空想にふけるのが好きで、キーボードを打つより紙とペンが好きな私は、WEB関係の技術が壊滅的であった。

自宅のインターネットを繋ぐのすら怪しく、ビックカメラのお兄さんに言われるがままネットを契約し、工事のおじさんが線を繋いでいるのを「へ~」とか言いながら見ているだけのレベルであった。ADSLすらもよく分かっていないポンコツだったのである。

 

朝9:00から竹内力と哀川翔


私が担当していたVシネの内容は、主に極道モノであった。

朝9:00から竹内力が女をあんなふうやこんなふうにする映像や、哀川翔が頸動脈を切られて死ぬシーンなどを見て、5分前後の小気味のいいタイミングで動画をカットし、ガラケーで見られるよう拡張子を変える、という作業である。

この作業は直感が頼りの作業だったし、拡張子を変えるのも単純作業だったのですぐ覚えた。

問題はHTMLとやらである。

ひらがな部分を差し替えるだけならまだイケたのだが、アルファベットのタグ部分を作るのは当然無理だった。タスクを貰うたびにこっそりブラウザをもう一つ開き、バレないようにこっそりググっており、私のPCには

「HTML テーブル 作り方」
「テーブルタグ すき間」
「HTML 改行 やり方」

など、完全ド素人の検索履歴が並んでいった。

 

Vシネの仕事、クビになる


Vシネの仕事は、一年近くもらえた。

しかしある日「ガラケーの動画サイトはもうダメだ」という方針になり、Vシネバイトたちは次々にクビになった。

当然私もクビになり、またつげ義春をしていたところ、今度は別のルートから「WEBの仕事がある」という話をもらったのである。捨てる神あれば拾う神あり。

 

入社時には立ち消えていたアダルトサイトの仕事


次の会社からもらった話は、新規で立ち上げるアダルトサイトの運営であった。仕事内容が前職と同様「動画の切り出しとHTMLの構築」だったので、「前職も同じ仕事をしていたのでOKです!アダルトサイト?全然へっちゃらです!」と前のめりで仕事をいただいた。

しかし、私が入社する時にはすでにアダルトサイトの話が立ち消えていたのである。

うっかり採用してしまったこのバイトをどうするか、上司の困った顔をよく覚えている。親切なことに別の「グラビアサイト」の運営の仕事を回してくだすって、結局この会社には7年近くお世話になり、WEB周りのあれこれを勉強させてもらった。

グラビアサイトの仕事も、やはり同様に動画の切り出しとHTMLの構築であった。HTMLの技術よりも、切り出した動画にタイトルを付けるのが上手になった。

「アンナちゃんのふわふわマシュマロおっぱい」
「こんなに小さい水着、はじめて…」
「ちょっとエッチなドキドキプリンセス」

などの腰が抜けるようなタイトルを、当日の体調やテンションに関わらず語彙力をフル稼働させ、一日何十個と付けまくった。

 

フリーランスに流れ着く


HTMLとADSLの区別がつかなかった時から十年経って、私はフリーランスになった。
結果的に、「創作に関わりながら生きる」という当初の希望にわりと近いところに着いたような気がしている。

ライティング、カットイラスト、バナー、HTML、DTP、SNS代行、そしてダンス…できることをできる限りやる。分からないことがあれば、HTMLをググっていたあの頃のようにこっそり調べることもあるし、詳しい人に教えてもらったりすることもある。

毎週ダンスを教えている子供たちから、将来について相談されたら何と答えたらいいだろう。私がやったような、「渡るな」と書かれた吊り橋をスキップで進むようなやり方は到底おススメできない。でも一つだけ言えるとしたら、やりたいことや信じていることがあるなら、たとえ後ろ指を指されても諦めない方がいい、ということだろうか。

もし彼女たちが将来つげ義春になっていたら、快くゴハンをおごり、できれば仕事のひとつも回してあげられるような人になりたいものである。